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Past Exhibition

Raum

高山 登

記憶の表出

2014.9.1 - 9.19

出品リスト

1. 記憶の表質- 1
1981
Paper, black lead
79.5×109.5 cm
2. 記憶の表質- 2
1981
Paper, black lead
80.0×110.0 cm
3. 記憶の表質- 3
1981
Paper, black lead
79.8×109.8 cm
4. 記憶の表質- 4
1981
Paper, black lead
79.4×109.6 cm
5. 記憶の表質- 5
1981
Paper, black lead
79.7×109.8 cm
6. 記憶の表質- 6
1984
Paper, black lead
79.5×109.8 cm
7. 記憶の表質- 7
1981
Paper, black lead
78.8×108.7 cm
8. 記憶の表質- 8
1981
Paper, black coal, aluminium
80.5×110.5 cm
9. 記憶の表質- 10
2002
Paper, coal tar
81.5×111.6 cm
10. 記憶の表質- 11
2002
Paper, coal tar
81.5×111.9 cm
11. 海嘯
2014
木、着色
1/15スケールの枕木に よるインスタレーション

— 3.11経験後 辺見庸『死と滅亡のパンセ』に共振 —

瓦礫の原でわいたこれら茫漠としてとらえがたい思いをどう説明したらよいのだろう。わたしは歩いた。乾ききった音が足につきまとった。海は燦爛と光っていた。昨春あんなにも黒く荒くれた海原が清々しく青んでいた。そのような様変わりを恥じたり照れたりしている気配などどこにもありはしない。2011年3月11日と同じ海がいまは、ひねもすのたりのたりかな、なのである。ぜんたい、造化の主などというものがどこにいるのだろうか。わたしはもう悲しくはない。くくくと、なにか笑いのようなものさえこみあげてくる。目的意識をもった造化の主がいないのならば、世界とはどのように措定されるべきなのだろうか。世界という時空とはそもそもなんなのか。なにかとてつもなく甲斐のないもの。それが世界ではないのか。とりもなおさず、それにはじぶんも包摂されていよう。それでは、命とはなにか。生とはいかなるものなのか。なにかとてつもなく無為なもの、かぎりなく甲斐のないもの……。その形象をああでもないこうでもないと描いては消しているうち、おかしな言葉がふわりと浮かんだ。「巨大な海綿のようなもの」。これはいい。瓦礫の原でわたしはひとりうなずいた。

『死と滅亡のパンセ』毎日新聞社、2012年より一部抜粋