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Past Exhibition

Raum

榎倉 康二

SKIN

2017.9.11 - 9.29

出品リスト

I. 予兆のためのコレクション

1975年、田村画廊での個展にて「予兆のためのコレクション」シリーズが発表されました。
これらは作家自身によって額に入れられ、作品名のラベルが貼られています。

  
1. 予兆のためのコレクション No. 36 25.5×31.2×2.9 (cm)
2. 予兆のためのコレクション No. 41 23.3×30.5×3.0 (cm)
3. 予兆のためのコレクション No. 56 24.6×30.7×3.0 (cm)
4. 予兆のためのコレクション No. 59 25.6×31.1×2.9 (cm)
5. 予兆のためのコレクション No. 60 25.7×32.0×3.0 (cm)

II. 1970年代に撮影された皮膚の写真

アトリエに保管されていた未発表のプリント13点

III. 皮膚に関連したコンタクト・プリント

身体の一部分を接写したイメージのカラー・コンタクト・プリント6点
田村画廊での展示風景のコンタクト・プリント1点



慰藉と対峙/内と外 ―榎倉康二の写真をめぐるメモ―

大日方 欣一

 わたしが最近、榎倉康二の視線をふと感じたのは、イギリスの写真家フランシス・カーニー(Frances Kearney)の作品《Five People Thinking the Same Thing》(1998)を見返している時のことだった。双方の写真作品のあいだを繋ぐなにかを感じた、というべきか。

 カーニーの5枚組の写真では、部屋(どれも住宅らしい)の中に人物がひとり、顔の見えない後ろ姿で、床に膝をついたり、椅子やソファに腰かけたりしている。暖炉であるとか、洗面台やバスタブ、簾状の日除けの掛った窓辺など、登場人物たちが身をおくのは住まいの内側と外側を媒介する通気弁、水まわりのポイント付近であり、中年以上の年恰好の彼、彼女たちは、寡黙げに手もとを見やりつつ、漠とした彼方へ意識を馳せているらしい。
 何をしているのだろう?
 陶製の碗からとりだした塩の山をてのひらに受けている。指先に生まれるあやとりのかたちに見入っている。あるいは、つまみあげたペンジュラム型の茶漉し(ティーストレーナー)から落ちるしずくを見まもっている。
 どの人物もごく日常的でささやかな物質を手もとに見つめ、なかば放心気味に、ゆらぎの行方を感じとろうとしている――日常空間の片隅に浮かぶ極微極小のきざしに何ごとかを占おうとしているように見える。

 榎倉康二の写真にも、それとつうじるものがありはしないか。《Five People Thinking the Same Thing》の5枚の傍らに、たとえば、打ち寄せる波が砂浜につくる曲線にそって全身を横たえ、それを確かめようとする後ろ姿の男を撮った《予兆―海・肉体(P.W.‐No.40)》(1972)という榎倉の1枚を置いてみることができるのではないか。
 カーニー作品と榎倉作品の後ろ姿の人びとは、周囲にひろがる事物たちの肌理、光のレイアウトに身体を同調させながら、くつろぐこと/知覚を凝らすこと(慰藉/対峙)を、一体のこととして味わっている――。
 わたしが榎倉の写真につよく惹かれるのは、彼のいう「事物と肉体が対した時に起こる緊張」という事態がそのまま、同時に、深い慰藉に満ちているようでもあるからだと、今、そう思える――それは、自己消去、無機物へ帰していくことを誘う、どこか危険な香りをともなった慰藉であるかもしれないのだが。

* * *

 一昨年春、わたしは九州へ転居して早々、たまたま訪れた福岡市美術館の常設展示室で榎倉作品に遭遇した――《予兆のためのコレクション》と題するそれは、ガラスの蓋のついた木箱に収納された長い刃物のセット5点と、やはり木製の小さめの額にぴたりと余白なしで嵌めこまれた人間の皮膚の写真数点(モノクロ光沢紙)の組み合わせからなる特異な作品で、1975年田村画廊の個展で当初発表され、たぶん、皮膚を撮った写真を彼が作品化した最初のものと考えられる。

   初出時から40年あまりを経た《予兆のためのコレクション》のひんやりと沈黙をまもった、地学資料の鉱物標本を想わせもするたたずまいを前に、わたしもまたなかば放心し、その場にゆらぎだす何かを追っていた。
 これらは“刃物”だろうか? なんとなくそう書いてしまったが、エッジ部分を眼でたどるとモノを切断できるほど鋭利に研がれてはいないようで、“刃物”よりもむしろ“定規”に近くないだろうか。目盛りこそ刻まれているわけではないが、これらは、ある測定尺度を措定する、原器的な物差しとしてここにあるのかもしれない。
 榎倉が残した撮影ネガからのコンタクトの中に、この“刃物”または“定規”を自宅アトリエの床などに置いて撮った一連のシートがあって、『予兆 Kōji Enokura Photo Works 1969-1994』(東京パブリッシングハウス、2015年刊)に、6×6判フィルム2本分全カットが収録されている。たんなる記録という以上に、あきらかに撮ることがある探究として展開している、大変興味深いコンタクトシートなのだが、それらをたどって気づくのは、室内の床面に“刃物”または“定規”をそわせたどのカットからも、共通して、窓の存在がだいじな相関物として浮かび上がってくること。
 窓から流れこむ光をさまざまに反射し、硬質に冴えわたる光の帯となるそれが、アトリエ内の今ここと窓外に広がる世界を二重に映じ、内と外の関係の布置を感知させる――。鋼のそれは、窓との相関をつうじ、外部の広がりと眼前の“ここ”を繋ぐ、言いかえれば遠/近を媒介する、榎倉的なパースペクティヴ(遠近法)を創出する試みとして、これらのコンタクトシートに現れているのではないか?
人間の皮膚を接写した榎倉の一連の写真が、当初まず、こうした“刃物”、“定規”または“遠近法”との組み合わせで提示されたものだったことは、立ち戻ってじっくり見つめ直してみるべきことのように思われる。

(写真 / 映像研究、九州産業大学芸術学部教員)

榎倉康二と皮膚

平芳幸浩

 写真の持つ魅力について、「日常生活の中にあるさまざまな事物、それらを名称的な認識(共同的な幻想)のしかたで捕らえるのではなく、そのものと直接対することによって、今までわたしが認識していた写真という領域には無かったほど、わたしの存在と外界の事物との距離を肉体の方向に近づける感触を得る事ができた」(『榎倉康二・写真のしごと 1972-1994』斎藤記念川口現代美術館、1994年)と語る榎倉康二が、皮膚を接写した写真を数多く制作しているという事実は非常に興味深い。
 榎倉を含めた「もの派」周辺の作家たちの問題意識は、事物(客体)と空間との関係のあり方、そしてそこに必然的に巻き込まれることで事後的に成立する自己(主体)のあり方にあった。そこに生起する関係性は、主体にとって個別的な経験として語られるが、実際のところその経験における主体の身体性は社会的でも政治的でもなく、事物と自律的で芸術的な関係を取り結んでいるに過ぎない。それゆえ、その主体は作家個人に帰せられつつ、同時に鑑賞者全ての身体が代入可能なものとなっている。それは榎倉自身が被写体となった彼の代表的な写真においてもそうなのだ。《予兆―海・肉体(P.W.-No.40)》で海岸に横たわる榎倉はカメラに背を向け、全体が影に沈んでいる。パリ滞在中に撮影された《予兆―床・手(P.W.-No.51)》においても、画面の中心を占める床に伸ばされた手は半ばシルエットとして表象されており、身体(肉体)の個別性は極めて消極的に扱われていることがわかる。大日方は、皮膚を接写した写真を「榎倉の写真作品の中で重要な位置をしめる」と語り、「不規則な形状、二つの領域を媒介するインターフェイス的な性格をもつ」点において《予兆―床・手(P.W.-No.51)》における水の等価物であるとする(『予兆Kōji Enokura Photo Works 1969-1994』東京パブリッシングハウス、2015年)。
 だが、私が榎倉の皮膚写真を興味深いと感じるのは、肌表面の不定形さやテクスチュアの面白さへの関心の現れというよりも、そこに決して水のヴァリアントには収まりきらない個別性の生々しさを見ずにはいられないからだ。

    現代美術において皮膚は頻繁に主題化されてきた。そこに共通して見られるのは、皮膚がその持ち主である「私」という生物的にも社会的にもある特殊性を帯びた存在と分離不可能な(特殊性が染み込んだ)ものとして呈示されているということである。皮膚は事物として対象化することが難しく、代入可能な関係性を構築するための距離を設定することができない存在なのである。
 作品の記録として出発した榎倉の写真は、常にある空間内で成立する関係を、ある距離を保って(その距離は極端に近い場合もあるが)把捉するものであり、それによって「経験」が写されることになる。一方で、榎倉による皮膚の写真が端的に示しているのは、そのような距離感の喪失である。おそらく榎倉自身、この距離の無さを自覚していたようにも思われる。それは皮膚が極端なクローズアップで撮られているからというだけでなく、写真そのものが空間性をほぼ完全に喪失するよう操作されているように見えるからである。
 肉体は立体的でありボリュームを持つが、皮膚は常に面としてある。その意味で皮膚は絵画の支持体であるカンヴァスとアナロジカルにも考えられるが、カンヴァスとの根本的な違いは、皮膚には終点がないことである。身体に対して皮膚は袋状なので、全身の皮を剥いで鞣さない限り、私たちはその全体像をつかむことはできない。つまり、皮膚は写真に「収まらない」のだ。榎倉の写真における皮膚は、ほぼ常に写真の四囲をはみ出すように伸びていくように接写されている。それはつまり、身体のカーブに沿って皮膚が回り込む部分(身体の輪郭として捉えられるような角度)が写り込まないように撮影されている、ということである。皮膚を空間的に把握することを、榎倉は端から放棄している。その空間性の喪失によって、榎倉は被写体としての皮膚から個別性を剥奪しようとするが、同時にその反作用のように、皮膚は生々しさを獲得する。かように榎倉にとって皮膚は、他の被写体とは全く意味が異なるものなのだ。
 では、皮膚とは何か。あえて榎倉の思索に引きつけて言うとすれば、それは人間の肉体としての私の〈接触〉あるいは〈限定性〉を開示するものである。榎倉が言う〈接触〉とは、「事物存在にとって欠かすことができない要素」で、「現実でありながら実体性のないものであり、視覚的にも見ることができるが、しかし自己の手の中に握ることはできない」ものである。榎倉の創作を動機づけているものは「この〈接触〉というとらえようのない世界を自己の手の中に握りたいと思う衝動」である。
 この事物存在の「接触」を探る試みは、最終的に私たちの肉体の接触へと跳ね返るものである。さらに榎倉の言葉を続けよう。「私達の肉体は、事物存在と比較して考えてみると、非接触的であり、又非限定的であるということをみつけだすことができる。(…)私達は、事物存在に対することで自己の肉体の空間との〈接触〉又〈限定性〉を認識しているといってよいのではないだろうか」(『象』エディシオン・象、1979年1月号)。事物と空間の「接触」は私たちの肉体の「接触」や「限定性」を知るための反射板のような働きをしているというわけである。さらに興味深いのは、この「接触」が常に「個人の歴史的な経験や社会的な状況性」という個別性と関わっていると榎倉自身が強く認識していることである。
 改めて言うまでもなく、皮膚は私たちの身体が外界と「接触」する界面である。だが、おそらく皮膚を被写体として様々な撮影を試みている段階において、榎倉自身は皮膚を「接触面」として捉えきれてはいないようにも思われる。《予兆のためのコレクション》において皮膚写真は、標本的に番号が振られて展示され、《STORY & MEMORY》シリーズでは他の写真と組み合わされることで、物語性が付与されている。依然として榎倉は皮膚そのものへ降りて行かず肉体のレベルで思考し、それは「非接触的」なものにとどまっている。皮膚は最後まで彼の創作上の問題として明確にプログラム化されることは残念ながらなかった。それは、彼の前の世代から続く身体的なパフォーマンスやボディ・アートのような直接的な身振りに頼らずに、事物存在を介することで世界と自己の関係性をクールに捉え直そうとする覚悟ゆえのことかもしれない。だが紛れもなく、皮膚は榎倉に「接触」や「限定性」を直接的に開示するものとして眼前に現れつつあったのだ。極論すれば、それが皮膚によって開示されれば、榎倉の作品に事物存在は必要なくなるかもしれない。皮膚をどう扱っていいのかよく分からないような戸惑いさえ感じさせる榎倉の写真のおもむきは、榎倉にとっての決定的な転機の到来を「予兆」していた点でも生々しいのである。

(京都工芸繊維大学美術工芸資料館准教授)